6月2日 放送
   
ほぼ等身大の和服美人が、大きな黒猫を抱きかかえた姿で描かれています。鼻筋の通った細面。憂いを含んだ黒目がちな流し目に、かすかに開いた口。肌が透けるように白いことを、抱いている黒猫が、強調しています。猫になりたい・・・。 作者の竹久夢二は、『大正の歌麿』とも謳われた美人画の名手でした。大正という平和で華やかな時代の波に乗った夢二は、数多くの美人画を描いています。なかでも最高傑作と言われるこの作品。それは夢二の人生にとっても、特別な一枚だったのです。
  
大正8年。一人の男が夢二を訪ねようとしていました。飯島勝次郎。掛け軸の表具を作る職人でした。不思議な絵です。夢二はこの絵に、どんな思いを込めたのでしょうか?何故、黒猫が描かれたのでしょう?そして、この絵のモデルは一体誰なのでしょうか?
大正ロマンと言われた時代の流行歌。この歌の詩も楽譜の表紙も竹久夢二の作品です。夢二は当時の花形クリエイターでした。大正から昭和の初期にかけて、夢二の作品が日本中に溢れたのです。 本の装丁や商品のパッケージデザイン、ポスター。そして絵はがきに至るまで、人々は夢二の才能を求めました。まさに時代の寵児だったのです。
  
そこに描かれた数々の美人画は独特のスタイルを持っていました。胸は薄く、手足の長い目はつぶらな夢二風美人。その究極が、あの女性です。 岡山県邑久町。竹久夢二は明治47年、この町の造り酒屋に生まれました。父親は芸事をよくする道楽者で、夢二が早くから絵を描きはじめたのも、ごく自然の成り行きでした。
  
のちに夢二が童心にかえって描いた絵、そこには少年夢二が描かれています。見つめているのは、好きだった近所の女の子。この故郷での暮らしが、女性への永遠の憧れの元になったと言われています。 画家を志した夢二は、17歳で家出同然に上京。早稲田界隈を拠点として、新聞や雑誌に挿絵の投稿を重ね、徐々に世間に認められていきます。そして23歳の時、夢二の人生に転機が訪れました。それは早稲田に絵はがき屋を構えていた女主人との出会いです。2歳年上の未亡人・他万喜。一年も待たず二人は結婚します。
   
夢二は他万喜をモデルに何枚もデッサンを描きました。死別した夫が日本画の教師だった他万喜は、夢二に絵のアドバイスもしたと言われます。そしてこの日々こそが、夢二風美人画の元になていくのです。成熟した色気を漂わせた、和服美人の姿。しかし、芸術家としての仕事を優先する夢二と普通の生活を願う他万喜との結婚生活は、長くありませんでした。
  
離婚直後に発表された初の画集『春の巻』詩のように絵を描くと言われた夢二の作風は、モダンボーイ、モダンガールと呼ばれた人たちの心を掴みました。そして一気に人気作家への階段を駆け上がっていったのです。夢二はこうして、数多くの美人画を世に送り出します。他万喜から始まった絵のモデルの多くは、夢二の恋の相手でもありました。
  
『黒船屋』。この絵には、画家、竹久夢二の努力と技量のすべてが込められていました。夢二と他万喜の間には、3人の息子がいました。竹久ミナミさんは長男・虹之介の娘。都さんは次男・不二彦の妻にあたります。遺族の元に残された資料。これは夢二が二十代の頃から始めた絵のスクラップです。独学で絵を学んだ夢二は、自らの絵の師匠を、安物の画集や美術雑誌に求めました。ムンクやロートレック、ルノアール。膨大な数の浮世絵も、丁寧に貼り付けられていました。
  
夢二が買い求めスクラップした資料の中に、『黒船屋』を描く時参考にした作品があるのです。アールヌーヴォーの代表的な画家、ヴァン・ドンゲンの『猫を抱く女』。比較してみましょう。よく似ています。
更に歌麿の絵からは、割れた裾からのぞく素足のエロチシズムを夢二はあの絵の中に取り込んでいます。歌麿の描く女は、顔よりも手で表情を表しています。繊細な手の動き・・・。そしてあの女性の手も、顔に負けない豊かな情感を表しているのです。 この絵は、大切に収集したスクラップのように、和・洋あらゆる絵のエキスを凝縮させた夢二独特の世界の集大成でもあったのです。
  
『黒船屋』を描いたとき、夢二の前でポーズをとったのは佐々木かねよ。お葉と呼ばれた16歳の娘でした。しかし夢二はお葉の向こうに、明かに別の女性の姿を見ていたのです。その女性とは・・・。夢二が死ぬまではずすことのなかった指輪に、名前を刻んでいた人です。【しの】
東京・日本橋。この町に大正3年、竹久夢二は自らがデザインした商品を販売する店を開きました。夢二ファンで賑わうその店に、足繁く通う一人の女性。18歳の美大生・笠井彦乃。夢二は彼女を「しの」と呼び、たちまち親しくなります。ひとまわり歳の差を越えた、恋の始まりでした。この絵が描かれる5年前のことです。 彦乃の父親は、夢二との交際を禁じました。人目を忍んだ逢瀬の記録が残っています。『池之端に出て、岩崎の裏道からまた大学の門に出た。しづかにさようならをした。ほんとになにげなくシーは門の内へ、ヒーは左に折れた。そこにお家騒動でもありさうな門がある。まだあったのだ・・・』
  
どうしても会えない時は、手紙を書きました。その時ふたりは、互いに符丁で相手を呼びあっています。夢二は彦乃を「しの」または「山」と呼び、彦乃もまた夢二を「川」と呼んで手紙を交わしたのです。こうした抑圧された恋は、なおのこと燃え上がるものです。端から見れば、道ならぬ恋でした。しかし夢二は真剣だったのです。やがて二人は知人の手引きで京都に駆け落ちし、二年坂に家を借りて一緒に暮らし始めます。「私の放逸な生活が私の肉体と霊とを、非情に不貞操にしていた時、あなたは純一な心と清新な健康とを持って私の前に現れたのでした・・・」つかの間の幸せ。
  
しかし、彦乃は、夢二との暮らしの中で、精神的負担からか体を壊します。そして彦乃は父親によって東京に連れ戻され、病院での治療が始まったのです。肺を病んでいました。面会を断固禁じられ、会いたいけれど会えない、憔悴する夢二。 夢二は『黒船屋』の制作にとりかかりました。モデルは、友人が連れてきたお葉と呼ばれるまだ16歳の娘でした。しかし、夢二が本当に描きたかったもの、それは・・・。この絵。夢二の他の美人画と大きく違う点があります。そう、画面の中央を占めているのは女性ではなく、黒い猫なのです。
  
黒猫は、夢二の心の自画像。すがっているのは、夢二の理想の女性の姿。モデルはお葉でも、夢二が本当に描いていたのは自分自身であり、会いたくても会えない彦乃だったのではないでしょうか。
「・・・私は静かになれました。どうぞ心おきなうあなたのお仕事を大切にしてください」そんな手紙を残し彦乃が亡くなったのは、あの絵が完成して間もなくのことでした。享年25。そして夢二は、生涯はずすことのなかったプラチナの指輪に、「しの」と呼んだ女性への永久の想いを刻み込んだのです。
  
夢二は晩年、榛名湖の湖畔にアトリエを構えました。そして、お葉をモデルに数多くの作品を描いています。晩年の作品です。夢二独特の美人画に変わりはありません。でも背景が違うのです。必ず山が描かれました。そこにはかつて「しの」とも「山」とも呼んだ女性の姿が重ねられているかのようです。この屏風の背面には、一遍の詩が記されています。『山は歩いてこない やがて私は帰るだろう』
  
夢二は50歳で亡くなりました。彦乃と同じ肺結核でした。飯島勝次郎は『黒船屋』を自分の恋人と呼び、終生手放しませんでした。そして90歳を越えるまで、現役の表具師の仕事をまっとうしたのです。
あの人は今、ここに住んでいます。この扉の向こう。彼女に会えるのは一年にほんのわずか、夢二の誕生日の前後二週間だけです。どうです、いい女でしょう。でもよく見れば、そこにもう一人画家自身の姿も見えるはずです。『黒船屋』竹久夢二、永遠の愛の一枚。
   
「黒船屋」所蔵先:竹久夢二伊香保記念館

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